雨女はかく語りき。

20代最後の1年を綴る。夫と二人暮らし。緩く妊活中。

おおママと最期の日

なんで元気な時にもっと会っておかなかったのか。良い孫ではなかった。

 

前日から泊まり込んだ母からもう危ないと連絡があって、急ぎ施設へ。休みだった私に合わせてたまたま有休を取っていた夫も一緒に着いてきてくれた。

 

8時半にパンなどを買い込み祖母の部屋に着くと母の他に看護師さんと施設長がいて少し慌ただしい。誤嚥性肺炎により39度の熱がでていた。処置の最中に「会わせたい人にはもうみんな会わせましたか?」と聞かれたら母。顔が曇る。実は私の弟(永遠の思春期)がまだ会っていない。週末に会いにくると本人が言っていたが、週末までは持たないのは素人目に見てもわかった。

 

「どうしよう…仕事かもしれないけど呼ぶべきか。」母の心が揺れた。母は弟に対して適切な判断ができない事が多い。という事で私が父に電話して連れてきてもらう手筈を整えた。

(手筈を整えた、なんて言うと大層なことをしたように聞こえるが"危篤、奴も連れてきて"と父に電話しただけ。)

 

すぐに父と弟は来た。

弟は青白い顔に黒い服で死神のようだったがとりあえず祖母の近くにより手をギュッと握った。母は弟と目は合わさず(片想いすぎてもう目も合わせられない)、たまに吃りながらでも一生懸命祖母の状態を弟に伝えた。

途中皆が無言になるとその間を埋めるために父がペラペラと関係のない話をし始めて母がキレないかハラハラした。(朝ドラがどうのとか…)加齢でもう喋りが止まらない、空気も読めない。落ち着いたらハンドサインを考えて、合図が出たら黙るという訓練をしようと思った。

 

弟が帰った後叔父がやってきた。

叔父も母と一緒に昨日泊まり込んだが一度2時間くらいかけて自宅に戻り、風呂に入りもう一泊できる準備をして戻ってきた。

その頃、祖母の容態は安定していた。

 

他愛もない話をしたり、意識のない祖母の手をマッサージしたり、祖母の好きだった曲を流しながら過ごした。

 

祖母の人生の話もした。

 

祖母は波瀾万丈な道だった。戦後の大阪で優秀な技術士で一家の大黒柱だった父を亡くし、幼いながらタバコを作って闇市で売って生計を立てた。

年頃になると勝手に決められた相手と結婚をさせられそうになり(お金持ちだが祖母のタイプでない男性)親戚を頼って大阪から東京に逃げたそうな。そこでは裁縫の仕事をしていたらしい、そういえば祖母は編み物も得意だった。娘が彼氏(my mother to my father)にあげた手編みのマフラーやらはこっそり彼女が編んでいた。

 

若い娘が一人東京に出て仕事をする。当時は大変なことも沢山あったに違いない…そんな中1人の銀行員の男性と恋に落ち、結婚し、子供をポンポン産む。でも生まれてくるのは男の子ばかり。4人目でやっと待望の女の子、それがうちの母だ。

 

家族6人で幸せに暮らしましたとさ…と終わらないのが彼女の人生。その後も激動だった。

 

と、そんな話をしていたら祖母の手にチアノーゼ(血中酸素濃度低下の症状)がで始める。

看護師さんの話ではこの後チアノーゼがもっと手足に出来てきて酸素が取り込めなくなり、血圧も下がる(この時まだ酸素濃度は点滅していたが90台、血圧は上が115、下が50)そして呼吸が止まっていくとのこと。

 

とりあえず、今日は血圧が安定しているから明日まで持つだろうと言われ、迷ったが、私は祖母に永遠の別れを言って施設を出た。

おおママは私たちがおおママの家から帰る時、施設から帰る時、いつもずっとずっと見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。

なのに私はおおママの見送りができなかった。ごめんね。

 

面白くて、優しくて、根性があって、私をいつも全身全霊で愛してくれるおおママが本当に大好き。私が不器用で鈍感な癖して、どうにかまっすぐ生きてこれたのは、おおママが心から私を信じきってくれたお陰でもある。

 

ありがとう。本当にありがとう。

 

次の日の明け方4時23分母から電話があり穏やかに息を引き取ったと伝えられる。

母は取り乱したりせず、落ち着いていた。

おじちゃんと2人で見送れたそうだ。

 

祖母、享年86歳。

長所は明るくてアメリカンな性格、料理上手で裁縫上手で綺麗好き。清潔な温かい空間を作るのが得意だった。短所はドタキャンが多かったこと、気が強すぎるとこ、そして…男を見る目がないところ。

 

どうか安らかに天国へ行ってください。